NO.6 beyond #2


が目を覚ましたとき、二人はまだ眠っていた。
体を起こすと、いつもと違う部屋に驚き、同時に都合の良い夢ではなかったと安堵する。
外はまだ暗く、陽が昇り切っていない。
まだ誰も起きていないだろうと思ったが、扉の向こうから灯りが漏れていた。

冷たい水で顔を洗い、目を覚ましてから扉を開く。
すると、昨日も嗅いだバターの香りが漂ってきた。
その香りに誘われるように、明りの灯った部屋へ向かう。

「あら、おはよう。早いのね」
「あ・・・おはようございます」
台所では、まだ早朝だというのに紫苑の母親が生地をこねたり、パンを焼いたりしていた。
部屋には香ばしい匂いが広がり、居るだけでほっとするようだ。

「紫苑のお母さんも、ずいぶん早いんですね」
「火藍でいいわ。パン家はね、皆よりずっと早起きして作っておかないといけないの。。
朝から焼き立てのパンが食べられたら、嬉しいでしょう?」
焼き立てのパンなんて久しく食べた事がないので、それがどんな嬉しさなのかわからない。
けれど、この香りを胸一杯に吸い込めたら幸せだろうなと、薄々感じていた。

「・・・何か、手伝いましょうか」
「それじゃあ、そこのトングを使って、焼き上がったパンを並べてくれる?」
「わかりました」
一泊の恩を返したくて、思わず申し出ていた。
西ブロックでは、どんな相手であろうと警戒心を忘れた事はなかったのに。
環境が変わったからだろうか、今は警戒するどころか、仕事の手伝いをしていた。

パンをトレイに並べ、店先へ陳列する。
の性格からか、パンは少しの乱れもなく、整然と並べられていた。
パンは次々と、色々な種類のものが焼き上がっていく。
せわしない朝だったけれど、突然訪れた非日常に、はどこか楽しんでいた。


陳列が終わり、火藍が店を開ける。
すると、待っていましたと言わんばかりに、一人の老人が入って来た。
「いらっしゃい、毎朝来てくれてありがとう」
火藍が老人に向かって笑顔を投げかけたので、は軽く会釈した。

「ここのパンがないと朝になった気がせんわ。おや、店員さんを雇ったのかね?」
「いえ、紫苑の友達なんです。今日はその子が並べてくれたんですよ」
「ほう、ずいぶんと綺麗に並べてくれているのう。さて、今日はどれにするかな」
老人の邪魔にならないよう、は台所へ引っ込む。
二人の日常会話を聞いていると、ますます現実味がなくなる。
何の危険もない、穏やかな空気。
安心感は確かにあるのだけれど、慣れていないからか、違和感を覚えずにはいられなかった。
平和な世界に、自分がいるという違和感を。


、ねぼすけ達に朝ご飯を持って行ってくれる?。
これからお客さんがやってきて、手が離せないから」
いつの間にか、大型のトレイの上にパンとコーヒーが乗せられている。
は両手でトレイを持ち、元居た部屋へ向かった。




部屋の前へ着いたとき、扉が開けられなくて一瞬静止する。
そのとき、タイミングのいいことに紫苑が扉を開いてくれた。
「あ、おはよう、
「おはよう。これ、火藍さんから」
紫苑はトレイを受け取ると、懐かしむようにパンを見る。
何の変哲もない食事でも、今の紫苑にとってはどんなご馳走よりも魅力的に映っているに違いなかった。

部屋に入ると、すでにネズミも起きていた。
普段と違う環境に戸惑うことなく、足を組んでソファーに座っている。
「これ、母さんが寝惚すけ達にって」
紫音は苦笑して、テーブルにトレイを置く。

「焼きたてのパンなんて西ブロックじゃあお目にかかれない。
閣下、ありがたく頂戴いたします」
ネズミが背筋がむず痒くなるような台詞を吐き、パンをかじる。
も一口食べると、口の中に甘い香りが広がった。
柔らかい食感と滑らかな口どけに、思わず目を細める。

西ブロックで暮らし初めてからは、こんなに状態のいいパンを食べたことはなくて。
飾り気のない、シンプルなロールパンに舌鼓を打っていた。
紫音もネズミも夢中になっているのか、ひたすら咀嚼している。
一かけら飲み込むごとに体が喜び、食事の充足感を覚えているようで。
食事が終わった後は、空腹だけではなく精神面も満たされていた。


「美味しかった・・・今まで食べた、どんなパンよりも美味しかった」
紫音は、味の余韻に浸っているように呟く。
夢中になっていたからか、口端にはパン屑がついていた。
ふいに、が手を伸ばし、指先でその屑を払う。
すると、紫音は驚いたように目を丸くした。

「そんなに驚かなくてもいいだろ、パン屑を取っただけだ」
「あ、そ、そうだとは思ったけど、君から触れてくれることって、滅多にないから」
そう言われればそうだったと、は過去を思い出す。
人を殺した汚れた手で、どうして易々と相手に触れることができるだろうか。
けれど、紫音はそんな手ごと自分の存在を受け入れてくれた。
それに、和やかな雰囲気のせいで、ほとんど無意識の内に手を伸ばしていた。

「紫音に触るのはいいけどな、パン屑ならあんたにもついてる」
「えっ」
とっさに口許を拭おうとしたが、その前にネズミが近付き、の顎に指をかける。
そして、自分の方を向かせると、口端に舌を触れさせた。
屑を拭ういでに、一瞬、唇を軽くなぞる。
ネズミはすぐに顎を離したが、その数秒の出来事で、は完全に紅潮していた。

「な、なに、して」
「久々に、あんたが動揺するとこが見てみたくてな」
からかっているのか、ネズミは意地悪そうに笑う。
こんなことをするのも、きっと、穏やかすぎる雰囲気のせいに違いなかった。




午後は、NO.6がどうなっているのかを見に行くことになった。
ネズミは気乗りしないと言ったので、紫苑ととで都市部へ赴く。
そこは、西ブロックに比べれば平和すぎる空気に呑まれていて、は警戒心をほとんど失っていた。


都市部には、あまり人がいなかった。
まるで、壁が壊されたことに怯えているように静まり返っている。
西ブロックの住民もいないようで、たまに小走りで駆けて行く人がいるくらいだ。
お互いに怯え合い、何もできないでいるのだろう。

この静けさは、明日にはどう変わるのか。
迫害されてきた西ブロックの住民がなだれ込み、暴動を起こすかもしれないし。
危険を感じた都市の住人が、部外者を淘汰するかもしれない。
絶叫や悲鳴が都市を包む可能性があると思うと、この静けさがやけに不気味に感じられた。

静かな道を歩いていると、ふいに紫音が言った。
、ぼくはNO.6を変える」
あまりに突拍子もなく、大それた発言に、は紫苑に目を向ける。
「簡単なことじゃないとは思う。けれど、ぼくはこの都市を変えたいんだ」
相手に語りかけるような言葉は、まるで自分に決意を言い聞かせているようでもあった。

「・・・紫苑なら、必ずやり遂げられる」
大都市を変えるとなれば人との軋轢はもちろんあるだろうし、お人好しな紫苑が乗り越えられるかどうか定かではない。
それに、都市の再編が、良い方向へ向かって行くのかはわからない。
けれど、紫苑がそう決意しているのなら、背を押したかった。
強い決意を秘めた瞳が揺らがぬよう、支えたかった。

「誰もいないし、他の所へ行こうか」
「ああ、そうだな・・・」
紫苑とが歩き出そうとした瞬間、遠くの方から走って来る人影があった。
ヒールの音を鳴らし、真っ直ぐに向かって来る。
ブロンドの髪が揺れ、サングラスはぐらぐらとしていて今にも落ちてしまいそうだ。
その相手はの前で止まり、息を荒げていた。


「・・・!」
突然、自分の名前が呼ばれては硬直する。
その声は、遠い昔に聞き覚えのあるものだった。
懐かしむのではなく、忘れようにも忘れられない、忌わしい声。

、この人は?」
「・・・知らない。人違いだろう」
はきびすを返して、その場から立ち去ろうとする。
「待って、!ねえ、私のこと、覚えているんでしょう、ちゃんと顔を見て!」
女性はの腕にすがりつき、サングラスを取る。
美麗な顔立ちをしていたが、は辟易するように目を逸らした。

「離して下さい。僕はあなたのことなんて知りません」
その口調がやけに冷淡で、紫苑は違和感を覚える。
はすがりついてくる手を振り解き、振り返らずに早足で立ち去った。
紫苑が、足早に後を追う。

、もしかしてさっきの人は、君の・・・」
「母親とでも言いたいのか。僕は両親の顔も覚えていないんだ、親かどうか判別しようがない」
本当は、声に嫌悪感を示した時点で気付いていた。
けれど、昔に比べて掌を返したような接し方が厭ましくて、あんなのが自分の親だと認めたくなかった。
温厚な紫苑の母を見た後だからか、余計にそう思う。
あの女の腹の中では、どす黒い策略が渦巻いているに違いないと確信していた。
の表情が険しいものになっていたので、紫苑はそれ以上言及しなかった。




その後も、都市の様子を見て回ったが、あまり変化は表れていなかった。
人通りも少なく、日が暮れて来たところで家に帰る。
そうして、三人そろって夕食を食べたが、はどこか落ち着かなくなっていた。

和やかな雰囲気の中には、暴力も、差別も、批判もない。
とても、平和的で安心する空間のはず。
だが、そんな雰囲気に、馴染むことができなかった。

「ちょっと、散歩してくる」
夕食の後、は一人で外へ出かける。
二人は何かを察しているのか、止めはしなかった。


外は暗く、ほとんど灯りがない。
街外れまで歩くと完全に人の気配がなくなり、不穏な空気が流れる。
ロストタウンと西ブロックの境目は、また警戒心を呼び起こさせた。
普通の人なら寄りつかない場所だが、慣れ親しんだ空気に懐かしさを覚える。
やはり、自分は紫苑の家には不釣り合いだ。
あんな和やかな場所に、西ブロックの雰囲気に染まってしまった存在は相応しくない。
一緒に居られるのは確かに嬉しかったけれど、あそこにいてはいけないと思う。

いつ、西ブロックへ帰ろうかと考える。
壁がなくなり、自由に行き来ができるのだから、紫苑もわかってくれるだろう。
は、壁の穴を確認しに行こうとさらに西ブロックの方へ進む。
そのとき、穴の方から森林とは違う香りが漂ってきた。
芳しいものではなく、もっと毒々しい、危険な香り。
は刀に手をかけ、近付いて来る何かに身構えた。

足音が近付き、匂いが濃くなる。
原因がはっきりとしたとき、は思わず呼びかけていた。
「使魔さん・・・?」
暗闇の中に見える白衣が、自分の方へ向かって来る。
月明かりに照らされた長身の男性は、が名を呼んだその人物だった。

、まさか、こんなに都合良く出会えるなんて」
使魔は両手を広げ、大げさなリアクションをする。
近付いて来る相手に、は一歩後ずさった。
以前、捕らえられて、体を好きにされそうになったことを忘れたわけではない。

「良かった、ここで出会えて。君がまだ白髪の子の家に留まっていたら、この香りを家に充満させないといけないところだった」
出会って早々とんでもないことを告げられて、は刀の柄を持ち、いつでも抜けるようにする。
毒々しい匂いは、母親の声と同じく忘れる事が出来ないほど厭ましいもの。
それは、自分を殺人者に仕立て上げた、二度と感じたくない香りだった。

「さっき、君のお母さんから電話があってね。
どんな手段を使ってでも君を取り戻してほしいと頼まれたんだよ」
母の話が出て、は唇を噛み締めた。
さっき、殺してしまえばよかったと、憎悪が湧き上がる。
あの女は、自分の家計さえ守れれば、他の一切の事はどうでもいいのだ。
完璧な形で生まれてきた妹だけを溺愛し、未完成品の子供は遠ざけたことから、はっきりとわかっていた。

「君が大人しく私に着いて来てくれれば、とても助かるんだけど・・・どうする?」
は目を伏せ、紫苑とネズミのことを思い出す。
やはり、幸せというものは長くは続かないものだ。
長考することもなく、答えは決まった。

「わかりました。どこへでも連れて行って下さい」
使魔は頬笑み、を先導して行く。
自分の家なんて、生涯戻りたくはなかった。
けれど、あの平穏な空間に脅威が紛れ込むのは、それ以上に嫌だった。
紫苑と、ネズミと、火藍が、これからも平和な時間を過ごしてゆけるのなら。
自分のことなんて、どうなってもよかった 。




―後書き―
読んでいただきありがとうございました!
まさかのオリキャラが出しゃばって申し訳ない。
自分の妄想を形にするには、どうしても必要な展開なんです。
ちなみに、は紫苑とネズミに心を開いたばかりなので、いちゃつき頻度は少なめです。